だいぶ年を取ってから癌が発見されて治療を受けない判断、または受けれない高齢者の割合が増えてきたらしい。
あくまでも「らしい」ということを前提に読んで欲しい。なぜならばそれを最終判断をするのはどんなことがあろうと癌患者になったご本人であるべきだ。と筆者は考えるからだ。
●75歳以上、85歳以上の高齢のがん患者さんでは、若い年代の患者さんと比較して、部位や病期によって「治療なし」の割合が多いことが分かった。

おそらく、筆者自身の場合、この年齢に達していて、癌を発症するようなことがあれば治療は拒否するだろう。
あとは痛みだけはいやなのでできるだけ取り除く処置はしていただきたいと思うけれど、命のどうのこうの話になった時には情緒で判断したくはない。自分の命だ。ということ。そして医療、医学には限界があることを知っているからだ。
人間ごときには、まだ越えられない領域があるのだ。(本当はもの凄くあって、ほとんどまだ未知の領域だ。と言いたい)
いつかは人類にも分かるのかもしれない。
日常の一般人の会話で、「あら、私、癌になっちゃって、末期らしいから、明日1日入院して治してくるわ♪」と鼻歌交じりで友達と会話するような時代が来るのかもしれない。でも、いまじゃない。
あと何年なのか何十年、何百年なのかもしれないし、実は金さえ出せば治る治療もあるのかもしれない。
しかし、現代医学が癌は初期段階での治療を目指すようになって、「昨今の医学が予防的な初期の癌発見に力を注ぎ始めるようになったんだな」と感じてからは、今現在、少なくとも私が生きているうちは癌の完治などというものは幻想でしかないのだな。と確信した。
もうひとつ、「そもそも癌とは病気か?」
とも考えている。
私は、「病は警告」なんだなと考えてもいるけれど、どうも癌というのは生き物への最終警告なんじゃないかな?と思う。
では、なぜアヤツは40歳になったばかりで発症したのか?
それというのは、もしかしてスイッチのようなものが遺伝子、細胞レベルであるのかもな、本人は望んでいないような気になっていたとしても、ボタンを押してしまっうこともあるのではないか?
若いときに意識もしないで一旦押してしまったスイッチはキャンセルできない?
そんなことを考えたりする。
あるていど、年齢を積み重ねて生き抜いてきたら、スイッチは自然に押されるようになっているのではないか?
そうも思うのだ。
別に、筆者は神秘主義とか神、宗教の話ではないよ。
興味、関心はあるけれど、それを運用している人間によって解釈がまったく変わってしまうことが嫌だし、見ていて醜いことだ。と思うから必ず1歩も2歩も引いてみるようになってしまう、要するに臆病と言われても全然OKなのだ。
でもね、この世界には何かあるらしい。とは思っているから、もしその一端でも目の当たりにしてみたい。とも思っている。
幽霊は見たことはないけれど、《その後の(第2部)》には書いていくけれど、妻の死後に「なにやら不思議だのう?」という体験はしているから余計に知りたいとは思う。
だからこそ、当然にその年齢になってからの、妻の治療を支えていて感じた、あの肉体的にも精神的にも大きな、まことに大きな負担をかける癌治療は避けることだろう。と想像できるのだ。
あの時から、癌というもの病というものへの関心が高まったことは間違いない。
このニュースを読んで改めてそう思った。
とりとめのない記事になってしまったことだろうが、この統計数字が物語っているのは、「人間だっていつか死ぬ」ということを本当に理解、納得できる人が多くなったのかもなぁ・・・
と勝手に想像している。
ではまた。
もう一つ言っておきたい。
末期がんになったら医療からというよりも治療からは見捨てられる覚悟が必要だと思っている。治る可能性がより高い方の初期段階に医療、医学の関心がシフトしたということだ。
「見捨てられた」という言葉を使ったけれど、早い段階で助けられる人を助けよう。という災害現場でよく使われることになってきた「トリアージ」という判断力のことを言っている。
最近のことなのだけれど、あるテレビ番組で「脳死?延命?」らしいタイトルで特集を放映していて、そのなかで一般人と称する視聴者もそのスタジオに招かれていての意見の一つだったのだが、大意は「もし、私のおばあちゃんが癌になっても、どんな形であっても生きていて欲しいから延命装置は絶対つける」みたいなことを言っていた。
「おばあちゃんの気持ちはどうなの、考えているのかい?」と少し悲しい気持ちになったことを覚えている。
私は生きている者が最優先と考えている。それは死者に対して、ということだ。生と死のの薄明の段階に留まる人だったならあくまでも生きている者として本人の考えが最重要なのであって、もし遺書のようなものを遺しているのであれば、開けるときだろう。と考える。
遺していないのであれば、その本人の意思を、そこに集う生者たちが推測するなり類推するしかない。
で、その決定をした時点から背負うものが出来上がってしまうけれど、シレっと忘れてしまえる方が良い。とも思うよ。
なぜかといえば、あなたが大切だと思っていた人のことをあなたが判断したことについて、《あの人》が文句を言うと思いますか? 恨みますか? そういうことだ。
この結論に達することができない人がけっこう多いのかもな。
対話が足りない!
と、モアイは思うのだ。