《告知という恐怖》「私は死に至る病になってしまった」と確定する終末

余命宣告

人は病の告知によって「死を確定」させてしまうのではないか?

人間は、生物は必ず死ぬということを知っているからこそ告知という恐怖の言葉を脳で認識した時点で、自分という身体の終焉を決めてしまうのではないか?

 

そんな風に思うことがありまして、、、

そんな話を書いていきたい。

ここのところ思うことを書きますが、ただの妄想みたいなものかも知れませんし、もしかしたら真実に近いところのお話になるかもしれない曖昧なお話です。

ここで書かずに別な、次のブログで書いたほうが良いような気もするのですがいま現在病と闘っている人を支えている方に伝われば良いな。

と前置きしておきます。

 

 

昔は告知しないことが主流だった。

昔、数十年前は本人にがんの告知をするかどうかを医師と家族が相談して決めていました。家族のない人は仕方がないので本人に伝える。そのために自分がなんの病気で死んでいくのかさえもわからない。で、実は周りは必死で隠すけれど患者本人は薄々わかってしまっている。

そんな、がん患者の話を悲劇なストーリーで創り上げた物語で映画やドラマ化していたものです。

そこから考えてもどっちが良いか?議論はあるかと思いますけれど《血糖値のモアイ》としてはできることなら識っておきたいとは思いますし、そう望む人も多いのではないでしょうか?

時代というものは人が望んでいるように変わっていくもので「命の尊厳」「知る権利」が尊重されるようになり今度は告知することが当たり前になってきたのであります。

 

でもですなぁ、天の邪鬼のようですが、いい頃合い、良い塩梅ということはなかなか難しくて、何でもかんでも「本人に告知する」ということが良いことなのかなぁ、、、と、ちょっと思うようにもなりましたよ。

いまの筆者ならば、必ずその病名とその状況を知ってからのほうが前向きに考えて行動できると思いますし、それを望みます。知らないほうが返って疑惑の心ばかり大きくなってしまって返って悪くなると思うし、また《終わる準備》もできないですからね。

こういうことを《識る》ために妻の癌というものがあったのではないかな? とも考えています

 

ただし、お医者さんの告知は、

それが事実なのであればお医者様はちゃんと伝える法律的な義務?じゃないかな、または医療界の大方針?としての一定のルールがあるわけで、それはお医者さんが悪いわけではないのですよ。

おそらく今でも、その家族の判断と相談により無告知もあるのかもしれませんね。

しかし、我が夫婦のときは考える時間は与えられずシレッと本人に告知されたんですけどね。

あとで「私の方から言っといたから・・・」と主治医に言われましてね、ちょっと違和感というか残念な疑問がムクムクと沸いてきて嫌な気持ちになったことはありました。

 

そこはね。

そういうこともあるので、ちょっと注意しておいてほしいな。

医者だって人間ですからね、人間として思慮深く考える高潔な人ばかりではないです。

流れ作業のように考える人もいますよ。

考え違いをしてはいけない。

 

 

先のテーマに戻りますが、

人間って素直すぎなのかも知れない。いつか見た映画から妄想!

《血糖値のモアイ》は思うところがありまして。

 

人類は末期がんの治療を一時的にあきらめたのです。

末期になるまで放っておくよりも初期の段階で見つけて叩いてしまうことを決心したのです。

そのほうが多くの人類を救うことになるわけで、医療ビジネスとしても繁栄し続けることができる。

まして、これもここ数年の考え方の変化なのかもしれませんが、「癌は末期になったら諦めるべき」のような論調、考え方が浸透していたこともあると思うのです。

そのために末期がんと診断された時点でその後の治療を断る患者が増えてきたことも理由でしょうか。(実は筆者もこの考え方です。たぶん変わらないと思います)お医者さんも無理に薦めませんね。

 

つまりステージⅢやⅣで発見された場合は患者本人の判断に任せる。医学でできることはあまりないです。ということを暗に宣告しているようなもので、まずはステージⅠから始めようとなったのが数年前のこと。

にわかにがん検診の必要性がテレビCMで頻繁に流れ始めるようになった頃のことです。

どこかから指令があったのでは?と感じるくらい急に様変わりしたことをを筆者は憶えています。

 

でもね、

諦めたといってもですよ研究は続いていまして癌そのものに挑む研究者としての医学者はあきらめていないのでしょうね。あと数年か十数年たつころには癌は撲滅できるらしいことがたまに出てきます。

いや、実はすでにそういう治療法は確立していてあまりに希少価値のために大変高価な治療になり一般のがん患者にまで廻ることがない治療? それこそ億単位のお金が必要なのかも、いや数十億かも・・・筆者の想像でしかないですよ。

 

そういえば思い出したのですが。プロメテウスというあのエイリアンの続編がありましたね。あの話の中で、人類の発祥の謎を探るための宇宙船を用意したトップのお爺ちゃんが末期がんを罹っていて、なんとかエイリアンの科学力で治そうとして今回の宇宙旅行を計画したという執念の場面があるのです。

「そうか未来の科学が他の星に人類を送るような時代になってもどんなに金持ちでもまだ癌は克服されていないのだな・・・」

「あんな状況になっても生きたいのかい?」そんな印象を持ちます。

なにかあきらめの境地に誘っているような、誘導しているような? そんな気がします。

 

などと思ったことを思い出しましたが、こういう映画やドラマなどの物語の面白いところは、何らかの形でその時代のその世相を著しているのですね。それを見つけるのが面白いなぁ、と。

実は人間、命のことになると大変素直なのかも知れません。

動物にも一部、自らの死期を悟る事ができるらしいですが、人類は「死期」や「命」という言葉を生み出したくらい「生死」のことを理解しようとしているわけです。ま、こういう話は別なところでしましょうね。まだここでは相応しくないですね。

 

 

人は自分が「病を患っている」と認識した時点で、本気の?死の?病になる。

 

例えば、人は

 

「あなたは癌です。それも末期です。あと3ヶ月です」

とあの白衣を着たたいへんな権威を感じるお医者様から宣告されたら・・・

頭の中で「あ、私は癌で余命幾ばくももないんだ!」と確信してしまうのではなかろうか?

 

筆者、糖尿病になったことがありまして、その発見したときには餓死寸前だったようなのです。血糖値なんて450とか言われつつピンときていなかったのですけれど、お医者さんは「まず早く入院してください」と言われてですね、イザ自分の病気となるとやはり恐怖が出てきましてね。

いくつか調べてみると通常の血糖値というのは140とか120とかだったりして糖尿病の末路を知りましてね。

「あれ、、、死ぬかもな、人の3倍かよ・・・」なんてね考えちゃって、自分がいなくなったとして・・・あとの準備はどうするか?なんて《終わる準備》を始めたのでありますな。そのような思考になったものですから、もし癌にかかった

 

闘病を始める。ということ

素直に「命の終わり」を受け入れる人と「そうはいかん、守るべきものがたくさんある」と「最期まであがく」と決心して「どんなに金を積んでも生きる」と決めた人の心の狭間にちょっと興味を持ちます。

そういうことなんですね。

闘う意志を固めるということは癌という病気を真正面から敵として見つめるから闘病という名称になるのです。このままでは癌に殺される。と考え闘うことにするわけです。それこそ言葉通りに必死になるということ。

 

別な方法があるんじゃないかと思うんです。

心の有り様と言うか・・・

 

だからもう少し続けます。

近々ね