「時間がない!」余命を生きる。もうね、好きなことをさせてやりたい

だと思う。

余命を聞いてしまったら、あとは好きなことをさせてやりたい。

逆らった考えだってある。

「ふざけんな!」ということだ。そんなことで・・・

そんなことで・・・

あきらめたくはない。絶対にだ。

でも・・・

一方で、本人だってあきらめていないんだから、それが望みであるならば、私にとっても心からの望みだし、命を賭けてでもまっとうさせてやりたい。

それが看る家族、夫婦の一方の望みだ。

当たり前だけれど当たり前なこと。

私たちは補助、後ろで倒れないように支えるしかできない。黒子のように陰で支えることしかできないことに気づく。もちろんソレで良いのだ、良いはずだ。

しかし、余命を知ってしまった。

信じるほどの根拠がない。と一生に臥(ふ)したいところだけれど、余命というのは人間の知能で唯一、「神のみぞ知る」はずの寿命をある程度まで測ることができるようになってきた能力だ。

だから神様ほどの精度はないかもしれないけれどある程度の年月が分かるようになってきた。

そう考えれば、ある程度の信頼できる確率を認めざるを得ない年月のことだ。

だからこそ、なんとかして「好きなことをさせてやりたい」と思うのは人情だ。

誰が何といおうと、「人の情だ」

そう筆者は思っている。

だからこそ悩むよね。

夢が短くなっちゃっている。

普通の身体ならば、数年をかければ何とかなりそうな望みでも時間は限られてきていることを疑うほど何かに囚われてはいないし、どっかの危なっかしい新興宗教などに嵌まることもないだろう。

全財産を喰われても患者本人が望むのならば、それでもいいか?

と思うこともあるだろう。

そこはね、ご本人とここを読んでいる貴方がそれでいいのならば、良いのだ。

筆者はそう思う。

しかし、あなたは知っている。もちろん今の時代本人も知っているはずだ。

だからこそ、間違ってほしくはない。

ほんとうにしたいことは「そうじゃないのじゃないか?」と考えてしまう。

そこに起こる感情は、「無力感」かもしれない。

相反する望みにどうしたらいいのか分からなくなってしまい、慟哭することもあるのかもしれない。

もしかしたら、あなたも、そこに悩むかもしれない。

では、どうすれば良いのか?

どう考えればいいのか?

私の行動をそのうち話そう。と思ってはいるが・・・。

がんばれ!

がんばれよ!

時間は限られている。

だからがんばれ!

ではまたな。